デイヴ・ロングストレス(以下デイブ):(トクマルシューゴの音楽は)アコギの音とか、レコーディングの音がとても素晴らしいよね。特に70年代のブラジリアン・ミュージックを彷彿させる音で。
トクマルシューゴ(以下トクマル):70年代の音楽もいろいろ聴いてるんですか?
デイヴ:うん。70年代ブラジリアンとか……70年代ブラジリアンとか(笑)
ーダーティ・プロジェクターズのサウンドにはアフリカン・ミュージックの影響も感じますね。
デイヴ:アフリカの音楽はほんとにスゴいよ。国によって全然違うタイプの音楽があって、南アフリカのゴスペルとか、セネガルのパームワイン・ギター・プレイヤーとか、マリのブルース・プレイヤーとか、各エリアによって掘り下げて聴いてるよ。
トクマル:アジアの音楽は?
デイヴ:誰かが僕のハード・ドライヴにCDを焼いて入れてくれたのんだけど、あれは多分、雅楽じゃないかな。独特の間があって、そこからパーカッションが入って、フルート(恐らく篠笛)の音が入って……っていう感覚がすごく好きだね。
トクマル:ふと思ったんですが、デヴィッド・ダーリングって知っていますか?
デイヴ:いや、知らないな。
トクマル:その人が台湾のプヌン族の人達とやっている音楽がすごく面白いんです。歌がメインのすごく不思議な音楽で。多分デイヴも好きだと思うんだけど。
デイヴ:クール!それはチェックしないとね。
トクマル:僕が初めてダーティー・プロジェクターズを知ったのは、2006年の終わりぐらいか、『Rise Above』が出る直前ぐらいで。アメリカの知り合いの間ですごい噂になってたんです。(ダーティー・プロジェクターズは)2006年の終わりぐらいから一気に盛り上がったというか、そういう感覚があるんですが。
デイヴ:ちょうどその頃は国内でツアーをしまくっていた時期で、車に機材を積んで、落ち葉とかにまみれながらみんな一緒に車に乗ってツアーしていたよ。ヨーロッパでも同じように、小さいバンでツアーをやりまくっていた。自由だったから楽しかった時期だね。
トクマル:NYの友人のローソン・ホワイト(トクマルがアメリカツアーを行った時にサポートドラムを担当したミュージシャンで、デイヴとは同窓生。)から噂を聞いたんですよ。デイヴはけっこう変わったところもあったていう。だから学生の頃、なんか変なことでもやってたのかなって(笑)
デイヴ:自分ではそう思ったことはないよ(笑)ただ、自分の声を信じて生きていると、周りから変な人に思われることもあるのかもしれない。アーティストでいると、そういう好奇の目にさらされることもよくあるし。でも、自分のなかでは、必ず片足は地に着いている、と思って生きてるよ。そういう意味では僕は好運だな、浮き足立ってないってことは。
ー10代の頃から幅広いジャンルの音楽を聴かれてきたんですか?
デイヴ:10代の頃は今より趣味が狭くて、聴いていたのはラモーンズとか、ブラック・フラッグとか、ビートルズの初期くらいだった。でも、そこから枝分かれしていって、大陸を超え、年代を超え、いろんなものを聴くようになっていったんだ。ただ、今でも僕は人間が作ってきた音楽のほんの表面しか知らなくて、まだまだ音楽を知っていると言えるほどではないと思うよ。いつの日か、〈自分がリスナーになるのか?ソングライターになるのか?〉っていうジャッジをする時が来るんじゃないかと思ってた。最近はもう思わないようになったけどね。
ーそれは大きな選択ですよね。
デイヴ:毎日毎日、どっちかを選ばないように、そのどっちでもいられるようにしてきたんだ。どっちか選ばなければいけないなと思う瞬間もあるけど、そうならないように心掛けきたんだ。
ー大学時代に2年ほどこもって曲を作っていたそうですが、その時が初めてのソングライティングへの挑戦だったんですか?
デイヴ:大学より前から曲作りはやっていた。〈ルールを学んでからルールを壊せ〉ってよく言われるけど、基本的に〈何かを学んだうえでそれを壊す〉っていう考えに僕はわりと従う方だと思う。でも、音楽に関してだけはそうじゃなかった。一番最初に音楽を始めたきっかけは、兄にニルヴァーナの『カム・アズ・ユー・アー』という曲のギターリフを教えてもらって、自分でそれっぽい曲を作ってみたんだ。それが13歳ぐらいで、そこから先はずっとギターで自分なりの音楽を作っていった。だから、音楽だけは何かを一通り学んだうえで新しいものを作って行くのではなく、最初から新しいものを作ろうとしてきたんだ。ただ、大学の最初の2年間で部屋に閉じこもって作った曲は、それまで自分が身に付けてきたあらゆるジャンルの音楽、それぞれの音楽の言語を、どうにかしてひとつにシンクロさせることはできないか?っていうことに挑戦していたんだ。
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